全国和麦の現場マップ

地域の小麦と農家を守りたい。
強い思いをもつパン屋のシェフが、
製粉所からつくりあげた、壮大な小麦の物語。

パン好きの方は「湘南小麦」の名前をご存知の方も多いかもしれません。
「湘南小麦」とは、湘南エリアで栽培された
農林61号・ニシノカオリ・ナンブコムギ、3品種の小麦をブレンドし、
低温管理を徹底した石臼製粉工場「ミルパワージャパン」で挽かれた小麦粉です。
かつて神奈川県は、小麦栽培や種の生産が非常に盛んな土地でしたが
安い値段で取引される理由などから小麦生産農家が減っていき、
1990年には250haあった小麦畑も2005年にはわずか30haまで減少しました。
そんななか、神奈川の小麦農家を支え、神奈川の小麦ブランドを確立する
画期的な活動「湘南小麦プロジェクト」が、2007年に発足。
小麦農家・製粉会社・パン屋さん、そしてそのパンを買うお客さんまで。
畑から食卓までがパンを通じて一体となる地産地消のモデルケース、
関東ブランド和麦の先駆け「湘南小麦」の現場をお伝えします。

湘南小麦プロジェクト

畑から食卓までを、和麦でつなげ。
“究極の地産地消”を実現させた「湘南小麦プロジェクト」。

「湘南小麦プロジェクト」は、パン好きに今も語り継がれる 伝説的なパン屋「ブノワトン」のシェフ、 故・高橋幸夫シェフと和麦との偶然の出会いから始まりました。
高橋シェフから受け継ぎ「湘南小麦プロジェクト」に取り組みつづける 一番弟子の本杉シェフの言葉によると、 美術が好き、絵を描くことが好きな、いわば“直感型”のタイプ。
そんな高橋シェフがたまたまフラッと旅に出た北海道で出会い、 その運命を変えたのが、美瑛の小麦畑でした。
「なんと美しいんだろう」その雄大な景色に魅せられた23歳の若き高橋シェフは、 「よし、国産小麦でパンを焼こう」と決意します。
当時はまだまだ、国産小麦でパンが焼かれることが珍しい時代でした。
周囲からは特異な目で見られながらも高橋シェフの決意は固く、 北海道と岩手のJAにかけあい、小麦の仕入れを交渉します。
そして粒で届く小麦を自ら丁寧に石臼で自家製粉し、パンを焼きあげました。
この徹底したこだわりから生まれるパンは、多くの人を魅了し、 「ブノワトン」は今でも伝説的なパン屋さんとして語り継がれることとなったのです。
そしてある日、高橋シェフはまた偶然に、
平塚に向かう道の途中で小麦畑に出会います。
それまで神奈川県で小麦が作られているという発想すらなかった 高橋シェフはとても驚き、その場で畑にいる農家に話しかけました。
「小麦は作っても値段が安くてねぇ。うちも今年でやめようと思っているんだよ」 そう話す農家をまたもや説得し、一般的な価格の5~10倍で買い取る 直接契約を結ぶという行動に出ます。
契約量に対して、それまで「ブノワトン」で持っていた石臼では足りない。
そこで高橋シェフは、製粉会社「ミルパワージャパン」を設立するに至ります。
これが、「湘南小麦プロジェクト」の始まりです。
2009年8月、高橋シェフは闘病の末、この世を去りました。
日本の食と、農家の未来を、真正面から考える。
生産者から小麦を受け取り、丁寧に小麦粉を挽きあげ、 その味わいを存分に引き出すパンを焼きあげ、お客さまへ。
畑から食卓までを、和麦というバトンでつなぎ続ける “究極の地産地消”を実現させた「湘南小麦プロジェクト」は現在、 「ブノワトン」時代からの高橋シェフの一番弟子、本杉シェフに引き継がれています。

プロジェクトのお話:「湘南小麦プロジェクト」推進者・「ミルパワージャパン」製粉責任者
パン屋「ムールアラムール」製造責任者 本杉正和さん

石臼の音に、麦の状態を聴く。
丁寧に、大切に、地域をつなぐ和麦に仕上げる。

「ミルパワージャパン」を立ち上げた師匠の高橋と同様に、 製粉工場とパン屋、二足のわらじをはいています(笑)
午前中は「ムールアラムール」でパンづくりを、 午後からお店を妻にまかせてこちらで製粉作業に取り組んでいます。
「ミルパワージャパン」は「湘南小麦」を世に送り出す核となる、製粉工場施設です。
この製粉工場での作業はかなり細やかなことに気をつけないといけない仕事。
ぼくは師匠の高橋が逝去する前、この「ミルパワージャパン」の 立ち上げから関わらせていただき、製粉作業に携わっていますが、 ほかに製粉作業の手伝いを許されたメンバーはいないですね。
ぼくも高橋と同じくものすごく細かいところがあるタイプの人間なので 「おまえならいいよ」と言っていただけたようです(笑)
高橋の逝去に伴い、奥様からこの工場を託されました。
「ミルパワージャパン」では、6台の石臼が稼働しています。
1日に挽ける量は5時間石臼をまわして200kgちょっと。
製粉作業はぼくだけで行っているため、流通量も増やせません。
スタッフを増やしていく構想もあるのですが、この仕事はきめ細やかさが命。
たとえば麦を研磨している機械の音を聞き、微妙な変化を聞き分ける。
音がいつもと違うと、小麦の粒が硬い場合があります。
そんな時は麦の皮(ふすま)を削る強さを手作業で変更する。
石臼の音を聞く。麦粒の大きさで、石臼の隙間を若干変えたりすることもあります。
慣れないと6台とも同じ音に聞こえるかもしれませんが、 石臼の前に立ち続けると、わかってきます。
この工場にある製粉&原麦貯蔵室は、低温でしっかりと管理しています。
「湘南小麦」にとってのイチバンのウリは、なんといってもその香り。
麦粒って、熱を与えれば与えるほど風味が飛んでいってしまうんです。
通常のローラー挽きで稼働させ続ける製粉機械は、 触ると熱く感じるほど温度が高くなってしまいますが、 「湘南小麦」はしっかりと低温で保った室内の ひんやりした石臼でじっくりと挽くことで、香りを保ちます。
そして、あえて粗挽きにするのもまた、香りを大切にするからです。
「湘南小麦」は触ればわかるほど、他の小麦と比べてザラザラした手触り。
細かい粒の方が製パン性は上がりますが、 麦粒が大きいほど、そのままの小麦の風味が残ります。
「ミルパワージャパン」では、小麦の一粒一粒を、 大切に、丁寧に、仕上げています。
ここまできめ細かやに製粉をするというのは、 自分で使う小麦粉だから、というのもありますが ほかのパン屋さんにお届けする粉だから、という思いがあります。
ボタンを押せばだれでもできる作業かもしれませんが、 1つ1つを丁寧に行っていくことで、小麦の精度は確実に変わってきます。
ぼくたちがお願いしている農家さんは、一生懸命、小麦をつくってくれます。
それに対して、いい加減な気持ちで粉にして流通させては申し訳ないです。
パン屋さんへお届けした後も、お客さまの口に入るまで、責任をもたなければならない。
だからこそ製粉の作業も常に神経を集中させますし、 この小麦粉をおいしいパンにしてくれるパン屋さんにこの小麦を託しています。
地産地消を掲げる「湘南小麦プロジェクト」は、“農家保護”も1つの目的としています。
付加価値の高い小麦粉をお届けし、おいしいパンに生まれ変わらせる。
そしてお客さまによろこんでいくことで、また、小麦が必要とされるサイクルをつくる。
小麦を高値で買うことで、栽培技術を伝える人が減少してきた 小麦農家さんを盛り上げ、次世代へつなげていく。
ぼくたちが小麦とパンを通して日本の食卓と農家の未来にできることを、 師匠の高橋はずっと考えていました。ぼくもその遺志を受け継いでいます。
パンを通して、農家さん、パン屋さん、お客さんをつなぎ、 地域一体が盛り上がる循環的な仕組みづくりを。
こういった取り組みが、ここ湘南の地だけでなく、 その土地土地で、日本全国に広がっていくことが、願いです。

プロジェクトのお話:「湘南小麦プロジェクト」推進者
パン屋「ムールアラムール」 販売責任者 本杉夏子さん

この地域に育つ小麦がもつ
甘みと香りを最大限に引き出して、
この地域の人々に、届けたい。

「湘南小麦プロジェクト」を立ち上げた師匠の高橋の元でパンを修行していました。
今は、「ミルパワージャパン」で湘南小麦の製粉を手掛ける夫と二人三脚で 「ムールアラムール」から「湘南小麦」でつくったパンをお届けしています。 「湘南小麦」は基本、ほかの小麦とブレンドすることを前提として配合された小麦粉です。
それは粉の粒が粗いから。つまり、小麦粉の粒が大きいので、 中心まで水を吸っていくのに少し時間がかかるんです。
さらに、石臼で挽くため、繊維質であるふすま(小麦の外皮)が多少入り、 グルテンを形成しにくくなる特徴があります。 このため、当店で使っているものも50%で一番多い配合となります。
小麦の粒が大きい一番のメリットは、香りと甘みが残ること。 粒1つずつにしっかりとうまみが残っているので、 しっかりとお水を加えてよくこね、じっくり時間をかけて発酵させると パンにして召し上がった時にとても甘みが出ます。
「ムールアラムール」では、「湘南小麦」自体が持つ 甘み・香りを最大限に引き出すよう、パンづくりをしています。
「湘南小麦」はその名の通り、湘南地域に根ざす小麦粉です。
私自身も秦野の出身ですし、夫は平塚出身。 ですから、この地域の小麦を使っていきたいという思いは強いです。
そして、「湘南小麦」でパンをつくることによって、そこに関わる農家さんや お店に来てもらっている地元の方から応援してもらっていると、強く実感します。
お客さまのご要望に応えるパンをつくりたい。
「ムールアラムール」では、お客さまとの会話をなにより大切にしています。
お客さまがどのようなパンを求めているのか、当店の味はブレていないか。 「ムールアラムール」のパンづくり原点は、 この地域で応援してくれるお客さまにあります。
「ブノワトン」時代からいらしていただいているお客さまも、 「ムールアラムール」から応援していただいているお客さまも、 どちらも納得させられるようなパンをつくり続けていきたいです。

生産のお話:「湘南小麦」生産農家 内藤正行さん

この、湘南の大地で育った小麦。
景色を思い描いて食べてもらいたい。

湘南小麦はここ伊勢原と、平塚、秦野の3地域、2軒の農家でつくっています。
数十年前まではこの辺り一面、小麦やレンゲの畑が広がって 小田急線からよく見えたんだけどねぇ。
神奈川県はもともと裏作で小麦をつくっていた地域で、 戦前は年間で1000トン以上、小麦が摂れていた。
大磯から船で江戸に出荷していたという記録が 歴史書の文献にも記されていたりしてね。
ところが戦後、輸入の小麦が入るようになって来てから 価格競争でまったく歯がたたなくて、 だんだん農家も小麦をつくらなくなっていってしまったんですよ。
一番少ないときで年間50トン。相当減ってしまったねぇ。
農家は、買い手がいないと作物をつくれないんです。
「湘南小麦プロジェクト」が始まってから、 全量をきちんとした値段で買い取ってもらう契約栽培になってね。
「うちの小麦でできたパンですよ」と、おみやげ用に買っていくと けっこう評判がよくて、とてもよろこばれるんです。
みんなに知ってもらって、食べてもらうと、農家も変わっていく。
きちんと収入が確保されていれば、次の担い手となる若い農家も増えていく。
そうすれば地域も活性化していくし、この美しい畑が広がる景観も守れる。
この畑では湘南小麦を使うお店や地域の教育機関(東京農業大学)などと連携して 「麦踏み塾」と言う麦踏みを体験する食育イベントを開いて、 小麦畑を知ってもらう活動もしています。
ふつう、踏んではダメなものとされている植物ですが、 小麦はストレスを与えないとやわらかく育ってしまう。だから麦踏みが必要なんです。
子どもも大人も、珍しがってよろこんで踏んでくれます(笑)
小麦のように強く生きてほしいと教えながら指導しますよ。
この湘南の大地で育った小麦です、 というのを思い描いて食べることが大事ですよね。
地域のためにも農家のためにも、地産地消が根本的な考え方となる取り組みが、 もっともっと、全国に広がってくれればいいと願っています。

パンのお話:「ポワンタージュ」中川清明シェフ

とても印象に残る、独特の風味。
おいしいから、使いつづけたい。

「湘南小麦」を知ったのは、「湘南小麦プロジェクト」を立ち上げた 「ブノワトン」の故・高橋氏がつくったパンを食べてです。
非常に独特な風味があり、とても印象に残りました。
いざ使ってみると、やはりパンチがある粉だと思いますね。
他の粉と混ぜても香ばしい風味が、きちんと残る。
その時期によってどのパンに使っているかは変わりますが、 基本的に食パンやカンパーニュ、バゲットなど、リエージュプションなど、 粉の特徴がしっかりと出せるタイプのパンに使うことが多いですね。
お店で焼いているパンには国産の小麦を使っているものも数種類はありますが、 特に国産だから使おう、関東で作られている小麦だから湘南小麦を使おう、 というようなこだわりはありません。
おいいしいから使う、それが理由ですね。
基本に忠実なパンづくりの中で、小麦粉の特性を活かしておいしいパンを焼きあげる。
湘南小麦は、これからも使いつづけていきたい小麦粉のひとつです。

東京農業大学オープンカレッジ「麦踏み塾」

何度も踏まれて強くなる小麦のように。
「麦踏み」体験を通じて、人生をたくましく生き抜く術を学ぼう!

東京農業大学の国際食料情報学部国際農業開発学科・板垣啓四郎教授は、 里山シンクタンス食育イベントプロデューサーの青沼一彦氏、 また、湘南小麦栽培農家と協同で開校しているオープンカレッジ「麦踏み塾」は、 「麦踏み」という体験を通じてその栽培技術とともに、 人生をたくましく生き抜く術を学ぶ食育プログラムです。
麦は成長期に“踏まれるほど強く育つ”稀有な作物。
その性質を利用した「麦踏み」は日本独自に確立されました。
近年いじめ問題など、心が折れやすい子どもたちのニュースが少なくありません。
自給率10%という麦類の生産の現状から日本の食卓を見つめ直し、 神奈川の地で栽培された小麦を使った「湘南小麦のパン」を食べる講座内容で、 地域住民、親子から学生まで、幅広い参加者に支持されています。
[2/15(日)レポート]
◎座学「私たちの食べるパン」 
里山シンクタンス食育イベントプロデューサー 青沼一彦氏による講義。
冒頭で、私たちがいま食べているものは、誰がどこで作っているんだろう?
それを地産地消・小麦・パンの見地から考えてみよう、と参加者に呼びかけ、
小麦畑から製粉までの行程を一通り解説。
また、「麦踏み」の意味を説明し、踏まれれば踏まれるほど強くなる麦のように、
逆境にも立ち向かい、強くなる人間に育ってほしい、と、
親子で参加している子どもたちに語った。
◎特別講演「消費者に近い農地」
東京農業大学国際食料情報学部国際農業開発学科、
板垣啓四郎教授による講演。
行列のできるパンケーキ店やパン祭りイベント、B級グルメイベントなど、 エンターテイメント性が求められるようになった食をとりまく環境、 その一方で、後継ぎの減少や耕作放棄地の増大により 日本の農家のパワーが減少してきた事象。
その背景で進む、グローバルな食材調達や複雑化した食品加工による 食の安全性の不透明化などの問題に触れ、 食と農の一致の必要性ができてきたことを提唱。
消費者に近い神奈川の農地は、自然・農地・伝統文化を伝え、 意見交換の場(プラットフォーム)になりうること、 生活の中に農を取りいれる「農ある暮らし」の提案を行った。
◎麦踏み体験
実際に畑へ移動し、参加者全員で麦踏みを行った。
◎湘南小麦使用パンの試食&ワークショップ
湘南小麦を使ったパンを提供するパン屋、 「ムールアラムール」のパンを参加者全員で試食しながら、 “食と健康”についてディスカッションするワークショップを展開。
持続可能なライフスタイルを形成する上で“食のモノサシ”を考えることや 「小麦を通して世界を見つめる」目線を考えること、 「麦踏み」を通して実感した感想などについて、 さまざまな意見交換が行われた。
◎東京農業大学オープンカレッジ
http://www.nodai.ac.jp/extension/course-index.html
  • 鳥取「大山こむぎプロジェクト」の現場から
  • 東京「日本全国ご当地パン祭り」の現場から
  • 埼玉「ハナマンテン」の現場から
  • 北海道江別の現場から
  • 神奈川「湘南小麦」の現場から
  • 京都「学校給食パン」の現場から
  • 福岡「かわさきパン博」の現場から